目次−最近の『つぶやき』・・2009年 11月或る日


就職活動や雑用で今日はあちこち出かけた。
車、電車、徒歩・・・
帰りの電車の中疲れて椅子の隅っこで眠ってしまった。

その時夢を見た。
約10年前、協力隊でブータンの僻地ジャングルに住んでた頃、私はreferal regional hospital(地域総合病院)と名前だけは立派だが実際はそれを建てた白人ボランティアが元々らい病患者療養所としたので「らい病=ハンセン氏病≒全身が溶けて不気味な患者さん」を現地ブータン人が気味悪がって山の上の辺鄙なところに建ててしまい、私は任期2年の間ものすごく土田舎に住んでいた。

ある日病院スタッフの看護婦さんらと病院のオンボロ・トヨタハイラックスに乗り込み病院からさらにジャングルの中を走り、途中車が進めなくなり皆で機材を担いで崖のまるで山肌を這いよじ登るような山道を四つん這いになって登り霧のけぶる山奥に山岳民族の集落に辿り着いた。
その目的は、ここブータンの田舎では15・6才で妊娠する女性が多く異常分娩での死亡率が高いので採血、貧血の検査をし栄養指導し、安全な出産をするための妊婦健診であった。

私は採血したり日本では考えられない旧式の(ザーリー法)検査器具で血液検査をしブータン・ネパール人の看護婦さんが現地語で保健指導をするというものだった。

ブータンは5〜6種類の現地部族後があり、殆どの看護婦さんは首都ティンプーの言語「ゾンカ」を話す。しかしその任地ZhemgangではKenkaという部族語なので話が通じない場合がある。ブータン人同士でも英語が使えないと言葉が通じないのだ!?!

そのKenka語を話す人をケンパ(ケン族の人)という。その時始めて普段いる病院の周りにある官舎(といっても粗末な建物だが)と違う高床式・茅ぶき屋根の現地人の家にお邪魔した。
勾配のきつい山肌の斜面に立てられた家は麓の村からは標高が急に高くなっているところなのでいつも霧?に囲まれていてなんとも幽玄な雰囲気でした。。
たしか民族衣装キラを纏ったブータン人の娘さんにスジャ(ブータン式のバター茶)を振舞われたのを覚えています。

NHK撮影クルーのように日本人数人で来ていたのなら、日本語で話する余裕があったなら「なんて貴重な!」と撮影したりビデオ(も持ってた)撮ったりしたはざなのだが、当時日本人は私独りだけでlocal communityに暮らし日本語話す機会は全く無く、心は全くブータン人化していたので何の違和感も感じず隣人のようにそのお茶飲んだり子供と遊んでいた。

しかし若し他に独りでも日本人が居り、日本人としての自覚が継続していたなら
その余りにも不思議な光景に絶句し写真・ビデオを取り巻くっていただろう・・・
しかし若しそんなことをしていたら周りのブータン人から浮きまくり日常生活を送れなくなり私はその任地からdrop outしていたはずだった。

それ位日本人でいながら全く日本人ではない生活を送るという「非日常」な2年間だったのである。

ブータンにてODA業務で私の任地にも来ていた東京の開発コンサルタント会社の人から帰国後連絡がありほんとは暫くこれからの人生をゆっくり考えようと(留学して修士位をとって本格的に海外業務に関わろう)思っていたが手っ取り早く収入が得られると、浅はかな思いでそのofferにのり「世界の果てのような任地から世界で一番忙しい場所の一つの東京」ど真ん中にあるその会社に就職してしまった・・・

しばらくして上腹部の具合が慢性的に悪くなり、朝の満員通勤電車のなかで気持ちが悪くなり始め、日ごとに状態が進み病院で検査の結果、十二指腸と膵臓が悪くなっていたのでした。

その後帰宅時も通勤満員電車に乗ろうとしたら気持ちが悪くなり、ある日「大手町」駅ホームで倒れてしまい、担架で近くの「東大病院」に運ばれた。救急外来でしばらく休んでいるとお腹も楽になりその日に帰宅しました。

人の混雑した満員電車に閉じ込められたりすると血圧上昇、頻脈、動悸、過呼吸になり気持ちが悪くなる・・今になって分るのですが、その症状は「パニック症候群」と呼ばれるもの。
9年前当時は未だ一般的ではなくネットの情報も余り無く心療内科も一般的でなかったので、普通の内科で診たら胃カメラとかで「胃・十二指腸炎症」との診断だけで、

「文化果つる世界の果てで日本人たった一人で暮らした」私が「世界一忙しい東京のモーレツ・サラリーマン」に変身したため巨大・過激「逆カルチャーショック」を受けていたのを周りの誰も気がついてくれず(ブータンなんて珍しい国の更に見知らぬ所に2年も独りで居た日本人なんて普通いませんから)自分を素直に表現するのが苦手な私は顔には出せず、しかし精神はそのあまりのギャップに悲鳴をあげていたのであった。

その結果入社して1年足らずなのにクビ。。

予定では帰国時に国内積立金が○百万円ほどあり、ブータンと日本の中間のタイの大学で(欧米より安いので(^^)開発学を学び、公衆衛生学修士をとりODA関係でも就職探そうかなと考えていた。。

人生を変えようと思って参加した協力隊だったが帰国時点で予定が狂ってしまったのである。

私の次の隊次でブータン・インド国境の町の病院の検査技師として赴任していたSさんはとても真面目な方だったが任期中現地人の間で子供が出来、本来なら公務で派遣されている間はprivateなことは御法度。しかし首都のJICA事務所スタッフが定期的に僻地隊員の安全確保のため任地巡回するのをサボっていたのがばれるのでその件をもみけしたという「お役人体質」丸出し事件もあった。

私もブータン人のgirl friend居たが彼女は首都、私は僻地でほとんど会えずTELや手紙で遠距離のお付き合い・・残念だった。

そんな事を夢に見ているうちに降車する終点駅に到着・・目が覚めた。。。


 

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