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 おいたち

大阪の普通科公立高校に入学。
高校に入るころまでは、おとなしい、目立たない子供だった。

府下でも有数の進学校。 入学した頃はまわりの同級生のように フツーに勉強して、それなりの大学にいって、それなりの会社に入って・・・
安易に考えていました。

高校1年生は「あっ」というまに終わり、進級はしたものの クラスメートにはなかなか溶け込めず登校するのが日に日に億劫になて来る。
2年生も終わりに近づき そろそろ大学受験にむけて勉学にいそしまねばならないのに、学校では大切な 5教科 よりは
美術室で 絵を描いている時が一番自分らしい・・・・という呑気な高校生活を送っていたのでした。

高校生らしく、クラスメートと楽しく会話することも殆ど無く、ひたすら「絵」を書く毎日・・・周りからは、教師からは「大学に行かなあかんのに、こいつ何考えてんねや・・・」

結局、登校拒否になり (当時としては今ほど多くなく、珍しかった) 理由も無く欠席することが多くなる。

学年末試験ではなんとか及第したものの、 体育の出席日数が不足・・・・・・・・・・・留年!

3年制の普通科進学校、全員、進級するのが当たり前の雰囲気の中、10年ぶりに出現した落第生となる!
はずかしい・・・・ 否、そのころは そんな心境ではなく 「いったい、自分は何のために学校の勉強しているのか? 自分は将来本当に大学に行きたいのか? 自分は本当は 何がしたいのか?」

さっぱり、自分で自分のことが ワケが分からなくなっていたのです。

まわりは学校で楽しそうに過ごし、授業中はそれなりにガンバって勉強してるが、クラブ活動したり、(共学だったので適当に女生徒と話したり、たまに付き合ってるやつもいたが) それなりに各自、高校ライフをエンジョイしてるようだった。

そんななかで、学校の勉強はだんだんしなくなり、好きな 夏目漱石、芥川龍之介、武者小路実篤など小説を読みふけったり、すきな絵を描いたり・・・。 ほんらいすべき 5教科はほとんど勉強せず、、、、とうとう同級生は上の学年に行ってしまい、私だけが取り残されてしまう・・・。

そのころの家庭状況・・・父は小さい頃から、忙しいサラリーマン、単身赴任でズーッと別居生活、2ヶ月に1日位しか会えません。
母はある新興宗教にて長年活動、、、学校から帰宅しても ひとりぼっち。。。。

もし 外交的な性格なら そんな高校を飛び出して、違う世界に冒険するなんて選択もあったかも。
しかし内気なわたしは どうすることも出来ずに 「引きこもり」 状態・・・・|_-)_-)・・・



 出会い

そんなころ、当時 社会科のN先生が学校側からアプローチしてくれました。わたしからは高校という社会生活に対して手も足も出なくなってたときで、そのころは普段、親に言えなかった 心の中の “ことばにしがたい、何とも言えない不安の塊”を なぜかこの先生には ブツケルことが出来たのです。

ほんとに今でも頭が上がらない・・・そのころは周りの人々の気持ちも感じれないような自己中心てきなわたしをそのまま受け入れてもらえた!!

ほんとにびっくりでした。 そしてこれが縁となって、いまも(たまにですが) 連絡・電話したりする25年近く続いている長い友人、しかも同級生なのに 3歳年長の T君 と出会う。。。

家にいても 「うつ病」状態だった私は高校から歩いて40分ほどの 「あるお寺」 にT君と下宿、共同生活しながら 2回目の高校2年生をすることになった。

新しい環境の下で 全く他人の(お寺の)家族にお世話になりながら通学 「いったい自分は何がしたいのか?」自問自答する毎日の中、なんとか進級、3年生もクリアして 丸4年かかって高校を卒業したのでした。

その後、家の都合で東京に転居。
大阪〜東京のギャップに悩みながら バイト生活・・・「何も大学だけが人生じゃない、いままで人一倍悩んできた自分なら、世の中の 悩める沢山の人たちの 役に立てることが あるのではないのか?」

ある方の示唆から 手に職をつけて 医療に関われる仕事がしたい という気持ちが強くなり、「臨床検査技師」の道に進むことを決めました。

同じ医療技術者でも「男なら レントゲン技師がいいのでは?」 とも思ったのですが、なんか放射線を扱うのはコワイ・・・という単純な理由でパス、、、 今考えれば、もっといろんな人に会って 直接話を聞いて具体的な仕事を自分で見て決定すればよかったなぁ〜と思うことしきりです。

東京の有名な研究所に隣接する専門学校に入学、規定の3年間を勉学に打ち込み、卒業、無事に国家試験を受験、合格、晴れて
「臨床検査技師」 Medical Technician の免許を取得しました。




 臨床検査技師の仕事

一般人より2年も遅れて社会人となって、最初の2年半は関西の医療関連会社で健康診断の業務に就いた。
検査技師だから 部屋にこもって淡々と地味な作業をする、というイメージでしたが、実際の業務は毎朝 他の社員より早めに出社、ワゴン車に機材を積み込んで いろいろな事業所、学校、公民館に出張、業務の隙間を縫って来られる受診者の健康診断の検査をする・・・。

ひととおりの生理検査(心電図、脳波、眼底写真、検尿、検便、採血)等を経験。
しかし元々絵が好きで、手作業で何かを創造することが好きなわたしは、検診のような直接、ヒトを相手にする仕事もよいが、もっと一つの事を深く極めたい、検査技師としての専門分野を持ちたい、という思いからその会社を退職、関東の臨床検査センターに再就職・・・。

そこで 「血液学検査」 の業務に就きました。
協力隊参加までの約7年間、私は顕微鏡下のミクロの世界に親しみ いろいろな分析機器を操作したり。。。検査ラボの世界を経験しました。


 人生、これでよいのか?

検査ラボのしごとは私にとって、うってつけ、これぞ天職だ、と思いました。
学生時代、美術部ですごしたように 手作業の仕事、それなりの充実感がありました。 しかし、5年目になったころから作業よりも人事管理の業務が増えてくる。。。

病院・医療の仕事は 女性中心の世界です。少数の男性職員は多数を占める若い女性職員をまとめていかねばならない。
すくなくとも多数の自分より若い新入職員を女性たちと うまくやっていかねばならない。。。

わたしは女性、とくに若い女性たちとうまく仕事をする、人間関係が苦手です。
上司とも相談しながら、頑張ったのですが 6年目頃から 「胃潰瘍」・・・その頃、アパートで一人暮らしの私にとって
1日の勤務を終えて 帰宅途上に買い物、自炊をする、、、という毎日はそれなりに充実していましたが

だんだんと 夜中に 胃の痛みで 眠れなくなってしまう夜が増えてくる・・・・・(今になって分かったが、このころから 慢性すい炎 の兆候があったと思う)

毎日 青白い顔をして 暮らしていました。。。



 「協力隊」との出会い

とある日曜日、都内に出かけた折 「青年海外協力隊 募集説明会」のポスターが貼ってある会場にたまたま 迷い込んでしまった。

「あ・・・・これって、よく 電車や駅の ポスターで見たことがあったな。」
そして 同じ職種の協力隊員のOB/OGの経験談を数人から聞かされる・・・。
同じ年代の男女が、国内でのいろんな経験を生かし、たった 2〜3年だが 途上国 という見知らぬ所で生活、仕事をする。

アフリカとか、カンボジアとか、南米とか 普段思いも寄らなかった国々の名前が、ぽんぽんと飛び出し なにやら怖そうな国に数年間いってきたらしいのに 生き生きとした表情で楽しげに話している・・・・。

「この人たちは 同じような仕事してるのに 何故 そんなに嬉しそうに・楽しそうな 顔してるのか・・・?」 ホント、不思議でした。
帰宅、翌日からの日々の業務の中、どうしても あの「生き生きとした顔」 を忘れることが出来ず、、、

数ヵ月後 とうとう 10年近く 携わった仕事を辞め、協力隊に参加したのでした。。。

 


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